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郷土の誇るべき人 海老名市の鈴木三太夫

私の住んでいる横浜市の近くに

神奈川県海老名市があります。

海老名市はミュージシャン『いきものがかり』の出身地として地元では有名で、

小田急線 海老名駅の発車のベルは『いきものがかり』の曲が流れます。

でも、海老名には誇るべき偉人がたくさん居るんです。

その中でも私が最近知った 一人、鈴木三太夫(すずきさんだゆう)という
江戸時代の人物についてご紹介します。

彼は、農民を守るために行動を起こそうとしたのですが、事前に発覚してしまい
子ども共々処刑されてしまった「義民」であります。

鈴木三太夫は、本名を「三左衛門」といい、大谷村の庄屋で、没年が1686年で

幼い子供をもっていたことから、20代~30代と予想され、江戸時代初期の人物であります。

「三太夫」という名は彼の死後、贈られたそうです。
これから先の文章では「三太夫」で統一します。

現在の海老名市大谷は江戸時代 「相模国海老名大谷村」にあたり、大谷村は

旗本の町野家が治めている領地だった1674年当時、その当主たる

町野幸宣は、領内に重い税金をかけていました。さらに、その子でもある

町野幸重も継続して重税政治を続け、出世のための資金をつくっていました。

大谷領内は荒れ果て、田畑を売っても生活が成り立たず、飢えや餓死に

領民は苦しめられていました。それどころか、決まった年貢を納めなければ

入牢され、男手も減ってしまいました。

村は存続の危機に陥いっていました。

そのとき、三太夫は禁断の手にでることを決意したのです。

幕府に訴え出るしかない」 無論、直訴はご法度。
生きて帰ることはできません。

だが、村が消滅してしまえば元も子もない。

「自分ひとりの命で村が救えるなら」、と三太夫は幕府に直訴する覚悟を決めました。

しかし、ここで代官にこのことを密告したものがおり、三太夫は即刻捕えられ、
幼い子供二人も連行され、斬り首に処せられてしまいました。その後、妻も後を追い
自害し、鈴木家は途絶えてしまいました。

後に、当主の町野幸重は出世に出世をして、大坂城番引渡御用という役職についたのですが
親不孝という理由で1701年に改易(任を解き新任者を補人すること)となり、その三年後に死にました。
これは地元では三太夫の呪いともいわれています

かくにも町野家は改易となり、大谷村の重税政治もおわりました。

昭和になり、三太夫の屋敷があった場所には霊堂が建てられ、海老名郷土かるたには

『農民を かばって 義民 三太夫』と、うたわれています。

義民として愛された三太夫は、これからも地元の人々に

「誇るべき、郷土の大偉人」として尊敬され

そして、語り継がれていくことでしょう。

現在も三太夫の命日である4月27日には、この霊堂と処刑場で供養が行われています。

                                                                                 参考資料 郷土史えびな
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